「横浜開港の歴史ウォーク」にゆく

whzat2008-09-25

「横浜開港の歴史ウォーク」にゆく
先日、幕末の横浜で起きた「生麦事件」の史跡をたずねる「横浜開港の歴史ウォーク」に参加した。秋晴れのさわやかな午後に、京急神奈川駅から生麦の間にある史跡や資料館を散策してたのしんだ。
参加者はシニア中心の総勢15人で、講師は大学職員で歴史研究家の方だ。講師の方は明治学院大学の職員の方で、この大学の創始者が(事件の被害者を手当した)宣教師で医師のヘボン博士だ。ヘボン式ローマ字や英語辞書を作った人としても有名だ。

ヘボン博士横浜に来る
http://hamakazuchan.web.infoseek.co.jp/birthplace/hepburn.html

京急神奈川駅から、幕末当時アメリカ領事館になった「本覚寺」と旧東海道の一里塚跡などの史跡、ヘボン博士の診療所の宗興寺、博士の住居の成仏寺、高札場跡を見学。電車で京急生麦へ移動し、「生麦事件参考館」で貴重な当時の資料を拝見した。「生麦事件参考館」は歴史研究家の方の個人資料館で、講師先生のはからいで見学できた。その後、旧東海道生麦事件の起きたあたりを散策した。
事件の発生した場所はキリンビール生麦工場の前で、見学終了後はキリンビアビレッジで工場見学をしてからビールで乾杯した。

生麦事件参考館
http://nikonf2fm2.ld.infoseek.co.jp/hamabura03.html

生麦事件の後、薩英戦争が起きるわけだが薩摩は和解して2万5千ポンドの賠償金を英国に払い、事件をきっかけに両者の関係は親密になる。そして薩長連合が幕府軍を破り、明治政府を興すわけだ。生麦事件は薩摩が西洋文明と戦って日本の軍事力の不足を痛感し、その後英国との交易や技術吸収をして軍事力を強化した。そして幕府を倒した。

英国に払った薩摩の賠償金2万5千ポンドは幕府から借金で、なんと250年という返済条件だったそうだ。ただし維新後は幕府の借金を明治政府が引き継いだそうだ。薩摩は転んでもただでは起きないしたたかな藩だったようだ。そんなしたたかな薩摩藩と英国が親密になったのは十分理解できる・・・などとビール片手に歴史談義で盛り上がった。

旨い!横浜キリンビール工場
http://asobiba.jp/asobiba/contents/asobiba096_kirin_beer_village.htm